法然上人=浄土宗を開いたお坊さん

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前回までのお話

1133 年、現 岡山県に生まれた法然上人は父を夜討ちで失い、僧侶であった叔父の元で出家した後、天台宗比叡山延暦寺で仏教を学びます。すべての人が別け隔てなく救われる教えを探し求めた法然上人は1175年、経蔵にて善導大師著『観経疏』に「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名を唱えるお念仏の教えを見出し、浄土宗を開く決意のもと、教えを広めるため京に下りられました。

京での布教の日々

京都では現在の大本山くろ谷金戒光明寺や知恩院を開き、布教の中心にされました。「あの智慧第一の法然が南無阿弥陀仏と唱える教えを伝えているぞ」との話はまたたく間に京に広まり、法然上人のもとには僧俗を問わず多くの弟子が集まりました。

そこには二祖聖光上人、浄土真宗を開かれる親鸞聖人、西山派開祖の証空上人といった高僧のほか関白太政大臣九条兼実、源氏武将の熊谷直実などもいました。生まれや性別、貴賤を問わず全ての人が極楽に救われる浄土宗の教えはそれまで一部の人々だけのものであった仏教を民衆に広める日本仏教の大転換点になりました。

上京時、法然上人が休まれたと言われる紫雲石(金戒光明寺塔頭西雲院)
大本山くろ谷金戒光明寺
総本山知恩院

流罪

しかし、浄土宗が民衆に広まる一方でそれを快く思わない人々もありました。それまで仏教は鎮護国家としての役割が大きく、民衆から自然と広がっていく浄土宗の活動はそれまでの宗派にとって無視できない脅威に写りました。それゆえ法然上人はじめ浄土宗はしばしば弾圧を受けることになります。

弾圧の決定打となったのは後鳥羽上皇の侍女と浄土宗僧侶が密通したとの噂です。この事件が上皇の逆鱗に触れ、僧侶当人は打首、法然上人も四国へ流罪になりました(建永の法難)

高齢の法然上人にとって流刑地への旅は死を意味します。が、流罪を避け逃げようとの誘いにも「私は四国には行ったことがない。これも布教の良い機会でしょう」と仰り、四国に向かわれました。そしてそのお言葉通り、海岸では漁民に、船上では遊女に説法し、どこにあってもお念仏の教えを人々に伝えられました。

つづく・・・

ちなみに

浄土宗では法然上人ご存命中の2度の法難「元久の法難」、「建永の法難」、没後の「嘉禄の法難」を合わせ、三大法難と呼んでいます。

浄土宗大辞典「三大法難」リンク


 露の身は ここかしこにて 消えぬとも こころは同じ 花のうてなぞ

「私たちの命は露のようにいつ尽きるとも限りません。しかし念仏を称える者は必ず極楽に往生し、蓮のうてなで再び会うことができるのです」

— 法然上人

まとめ

法然上人とは#3

  • 浄土宗を開いたお坊さん
  • 1175年に浄土宗を開く
  • 民衆を中心に広まる
  • 革新的であったが故、流罪に

この記事を書いた人

副住職こうじりゅうじ

浄土宗善立寺副住職
浄土宗総合情報システム専門部会委員
浄土宗総合研究所研究スタッフ
大正大学地域構想研究所客員研究員
ScanSnapアンバサダー/DXアドバイザースペシャリスト