お坊さんがお坊さんにインタビューする特集「エコー」、今回は東京都芝公園にある最勝院住職、村田上人にお話を伺いました。浄土宗大本山増上寺の塔頭寺院(大寺院内にある個別寺院)で、二代将軍秀忠公の正室(妻)『お江』の御霊屋である最勝院さま。そこには時代に翻弄された知られざる苦難の歴史がありました。

最勝院住職 村田洋一上人

副住職(以下、副):最勝院さまの由来について教えてください。

村田上人(以下、村田):最勝院は寛永三年(一六二六)に亡くなったお江の御霊屋を護るために建てられました。織田、豊臣、徳川を親類に持つお江はとても影響力のある方で葬儀は後の秀忠公の葬儀より盛大だったそうです。当院も江戸時代は幕府の庇護のもと徳川家の私的寺院として継承されました。

 しかし、明治維新により幕府の庇護を失い、徳川家に関わる法要も行われなくなりました。徳川家のための寺院であったがゆえにお檀家さんもおりませんでした。境内地も三分の一ほどに縮小され、現在地に移転されました。その後、どのように維持してきたのかはわかっておりませんが大変だったと思います。

江戸時代、最勝院があった場所

 住職が住んでいない時代もあり、昭和六年から十年までは作家の吉川英治さんが当院をまるごと借りて生活されていました。ここで『親鸞』が書かれ、代表作『宮本武蔵』の構成も練られたようです。当時の建物も空襲により焼失。その後も二度火事に遭い、護持のため境内地を売却するなどして現在に至ります。

創建当時の最勝院の地図

:村田上人はどういった経緯でお坊さんになられたのですか?

村田:私にとって当院は母方の実家にあたります。母の長兄が継ぐ予定でしたが、出兵先から引き上げる際、ロシア軍の魚雷により船が沈み、亡くなってしまいました。そのため、次兄である伯父が継ぐことになりました。といっても、改良服も無いくらい法事法要がないお寺でしたので、住職は中学校で国語の先生をしながら最勝院を護っていました。

改良服
お坊さんが日常着る最も一般的な法衣。写真で村田上人や副住職が着ているもの

 私が子どもの頃、最勝院に遊びに来ても、ちょっと大きめの仏壇があるごく普通の民家で、お寺だと知ったのは後のことでした。私が高校生のとき、当院が火事に遭い、住職が私の家に仮住まいしました。そうしたこともあり就職が決まった大学時代に僧侶の道に誘われて住職の養子になりました。

 大学卒業後、『家庭画報』などを出版する世界文化社で男性誌『ビッグマン』の編集者をしていました。当時はバブル全盛で東京の出版社と言えば流行の最先端。毎日、朝から日付が変わるまで働き、さらに僧侶の資格を得るために佛教大学通信科に入り、休日は課題、夏は修行という生活を送っていました。そんな状態だったのでお寺で一緒に暮らす住職とは顔を合わせることも少なかったです。そして、何の引き継ぎも無いまま、昭和六十年に住職が急逝しました。それから私が修行を終えるまでは先代の兄弟弟子に兼務していだきながら、平成三年、加行(浄土宗僧侶最後の修行)を終えました。

 その後もこれまで通り、働きながらお寺を護る選択肢もありました。たしかに出版社は華やかな世界で充実していました。しかし売れるための企画に縛られる雑誌を作ること、歳を重ねて取材相手が私よりも年下になったこと、そして仏教を学ぶ中で自分のこれまでの人生を顧みたとき、「このままでいいのか」という想いが湧き、一度、人生をリセットしてみようと会社を辞めて、最勝院を引き継ぎました。 

 しかし、いざお寺に入ってみると予想以上に状況は厳しく、会社員時代の貯蓄を切り崩し、休日は八王子や千葉のお寺へお手伝いに伺って生計を立てていました。編集の経験を買われ、浄土宗出版室の非常勤職員や総合研究所で様々な出版物の編集にも携わりました。同じ頃、法然上人鑽仰会にお声がけいただき、月刊誌『浄土』の編集に携わり、一昨年からは編集長を務めています。

法然上人鑽仰会
戦前から現在も続く浄土宗有志僧侶の会

:護持が難しい中でも投げ出さず、続けられてきた熱意の原動力はなんでしょうか?

村田:今、目の前にお江が手にしていた念持仏がある。震災や空襲を逃れ、最勝院が代々守り抜いてきた宝物がある。となったとき、それらを放り出すことは考えられませんでした。一方、このままの状態では次の世代に引き継げないという現実も見えていましたので、どうしたら最勝院を次の世代に残していけるのかと考えを巡らせる日々でした。

お江の念持仏。蓮の蕾の中に阿弥陀如来像が収められている

 東京にも同じように悩むお寺があり、なかには別の場所に移転して再起をかけるお寺もあります。しかし、最勝院は増上寺塔頭寺院であり、やはりこの地にあることに意味があります。

 この地に最勝院を残していくため、平成十八年、上階を賃貸物件として整備し、地階に本堂を納める現在の形に至りました。資金もなく、建設には東奔西走しました。

マンション地下にある最勝院本堂

 四百年前から時代時代の住職の想いで継承されてきた最勝院は私にとってもすごく思い入れのあるお寺です。次の世代の人たちもより良い最勝院のかたちを見つけ、未来に継承してくれたら嬉しい限りです。

最勝院 村田洋一上人

この記事を書いた人

副住職こうじりゅうじ

浄土宗善立寺副住職
大正大学地域構想研究所客員研究員
元エンジニアで寺院のデジタル化を推進する
寺院ITアドバイザーとしても活動している
ScanSnapアンバサダー/認定DXアドバイザースペシャリスト